閉じた瞼の向こうに、澄んだ青い空が見える。 もうずっと瞳を閉じたまま、 エルロンドはそこにたたずんでいる。 足元を濡らす波 頬を撫でる潮風 両手を伸ばしても、 触れるのは湿った空気だけ。 懐かしい声が、 ずっと ずっと 耳の奥で鳴り響いている。 愛しい声が、 呼んでいる。 ふと顔を上げ、ギル=ガラドは海の方を見た。 唇を閉じ、眉を寄せ、じっと耳を澄ませる。 「ギル=ガラド王?」 配下の者たちの呼びかけに、片手をあげて言葉を制する。 今は会議の最中だ。 終る事のない会議は、幾日も幾日も続いている。ひっきりなしに客が現れる。 ギル=ガラドは、休むことなく昼夜その仕事に追われている。 永い戦いが、終ったのだ。 エルフには赦しが与えられ、 再びヴァラールに召還された。 キアダンはここ灰色港に拠点を築き、エルフを乗せる船を急ぎ作っている。 西へ渡るエルフ達を取りまとめるのが、今のギル=ガラドの目下の仕事で、 淡々とそれをこなしている。 順番を巡って争う事もなければ、食料が足りないと不満が出るわけでもない。 方々から集まってきた彼らの話を聞き、今現在のミドルアースの状況を地図に示す。 世界は大きく変わってしまった。 新しい世界を把握するために、ギル=ガラドは情報を集めた。 そうすることに心血を注ぎながらも、心の隅に心配事も抱えていた。 もっと彼と時間をとるべきなのもわかっていたが、そうしたいのであるが、 ギル=ガラド王を指名して会いに来るものが後を絶たないのだ。 彼、エルロンドから、目を離すなと、信頼の置けるファラスリムに頼んでおいた。 キアダンの配下のファラスリムは、造船に多忙なのはわかっていたが。 エルロンドは立派な青年であり、目を離せない子供ではないことは明らかで、 なぜギル=ガラドがそれほど心配するのか、誰もが訝った。 多忙の中に身を置きながらも、ギル=ガラドはエルロンドと同じ事象に胸を痛めていたのだ。 だから、常にエルロンドの事を気に留めていた。 「王、どうされましたか」 じっと窓の外の海を眺めて耳を澄ませていたギル=ガラドは、ぼそり、とその名を呼んだ。 「は?」 「………エルロンドは、どこだ?」 海に目を向けたまま、すっと立ち上がる。 「申し訳ないが、あとは明日早朝に。急用があればキアダンの方に申し出てくれ」 「ギル=ガラド王?」 ギル=ガラドは足早に会議室を出た。 造船所のある港から少し離れた、エルロンドを住まわせている浜辺の屋敷へ急ぐ。 そこにはギル=ガラドの私蔵の書籍が詰まれ、エルロンドに自由に読んでいいと言い渡してある。 時には造船所の方に連れて行くこともあったが、西へ旅立つ者たちが押し寄せる今は、 エルロンドにかまっている暇もなかったし、エルロンドも落ち着かないだろうと配慮したつもりだった。 屋敷には、誰もいなかった。 浜の方へ急ぐ。 と、ギル=ガラドは耳を押さえて膝を折った。 呼んでいる。 胸が、引き裂かれるように痛い。 「エルロンド!!」 服のまま波を掻き分けて海に入る。海水に恐怖はないし、泳ぐ事は馬に乗るのと同じくらい容易い。 ずっと、幼少の頃よりずっと、キアダンと海辺で暮らしてきたのだから。 海に潜り、エルロンドを探す。 そこにいることは、わかっている。 日の光が海面から海の底に筋を作っている。 銀色の光の差し示す先に、漆黒に輝く夜の光。 (エルロンド) まるで、母に抱かれる赤子のように、不安のない穏やかな表情で、ゆっくりと沈んでいく。 (エルロンド! 戻って来い!) エルロンドの腕を掴み、自分に引き寄せる。 その時、 ギル=ガラドは、エルロンドの見ているものを見た。 (!!) 心が悲鳴を上げる。 身体が硬直し、手の平に尋常でない激痛を感じ、 その真っ暗な絶望の中に吸い込まれる。 引きずられる (エレイニオン) その男を見上げる。 (兄上、もう行かないと) その兄弟を、賞賛の眼差しで見つめる。 (エレイニオン、また会おう) マエズロス殿、マグロール殿、また、会えますね。 教えていただきたい事が、たくさんあります。 「ギル=ガラド…エレイニオン!」 肩を揺さぶられ、ギル=ガラドは目を開けた。 太陽がまぶしい。 「キアダン……」 目の前の男の名を呼ぶ。キアダンはあからさまに安堵のため息をついた。 とっさに現状が飲み込めず、頭をめぐらせる。己は波打ち際に横たわっており、 右手はまだエルロンドの袖を掴んでいた。エルロンドは蒼白な顔で動かない。 ゆっくりと指を開き、その頬に触れる。息は、ある。 「海に沈んだエルロンドを助けようとして、………お前さん、引きずられたな?」 エルロンドの闇に。 ああ、と、ギル=ガラドはため息をついた。 そうか、また引きずられたのか。 己の弱さ、だな。 「それで、また助けられた、というわけか。情けないな。 でも、なんでぼくが溺れているってわかったんだ?」 「わしを、呼んだろう?」 驚いたように眉を上げ、そして苦笑する。 そうかな。 そうかもしれない。 「それで、エルロンドはなぜ身投げなど………」 深く息を吐いて、ギル=ガラドは水平線を見やった。 「歌」 「歌?」 「ああ、聞こえないか、この歌」 しばらくキアダンは目を閉じて耳を澄ませるも、首を横に振る。 そんなキアダンの素振りに、ギル=ガラドは切なくなる。 あなたには、聞こえないんだ。 あなたには、闇がないから。 「海が、歌を運んでくるんだ。マグロールが、歌っている」 深い悲しみ、絶望。 どうしようもなかった。血の制約には抗えなかった。もう、そんなことはしたくなかったのに。 死ぬ事さえ、マンドスの安らぎさえ与えられない。永遠に、この世が終るまで、責め苛められ続ける。 「エレイニオン」 突然、力強い手で顎をつかまれ、海から視線を逸らされる。 「キアダ…」 キアダンはギル=ガラドの耳を両手で塞ぎ、額を突き合わせた。 「そんな声は聞こえない」 「………」 「そんな歌は聞こえないんだ。エレイニオン、聞こえるのは、波の音だけだ。 フェアノール殿の血の制約は、お前さんを苦しめはしない。 そんな業は、お前さんの父上が、お前さんに残しはしなかった。 よいか、エレイニオン、お前の父はわしだ。海はお前に悲しみを運んだりはしない」 キアダンの言葉は、わだかまる黒い塊を、ゆっくりと洗い流す。 闇の中に、光が差す。 止まっていた息が、静かに空気を運び出す。 一度目を閉じ、大きく深呼吸する。 キアダンは両手を下ろした。 ギル=ガラドの耳には、もう波の音しか聞こえない。 「大丈夫だね?」 「ああ、もう、大丈夫だ」 キアダンは、風のような滑らかさで立ち上がった。 「エルロンドはお前さんほど単純ではなかろう」 「ひどいな」 「しばらく一緒にいてやるといい。こちらはこちらで何とかする。 明後日の夜、わしの工房に来てくれ。ギル=ガラド王、一人で。大切な話がある」 ギル=ガラド王、その名に心が引き締まる。 エルロンドの前では、 否、 自分は、 王、 なのだ。 「わかった」 ギル=ガラドは意識を失ったままのエルロンドを抱き上げ、立ち上がった。